
毎朝、同じ時間帯の電車に乗っていると、何度も顔を合わせる人がいる。
私の場合、それが今回の話に出てくる男性だった。
年齢は40代から50代くらい。スーツ姿で、いわゆるサラリーマン風の男性だ。特に目立つ人ではないが、一つだけ気になる特徴があった。左手首に数珠をつけている。
黒っぽい珠が連なった、ごく普通の数珠に見えた。ブレスレットのように身につけているのだが、毎朝ほとんど同じ時間、同じ車両で見かけるため、いつの間にか顔とセットで覚えていた。
男性はいつも静かに座っていた。
スマートフォンを見ることもあれば、目を閉じていることもある。誰かと話している姿を見たことはない。
ある日の朝、いつものように電車に乗った。
その日は比較的空いていて、男性の隣の席が一つ空いていた。
私は少し離れた場所に立っていたが、次の駅で降りる人が増えそうだったため、空いているうちに座ろうと思った。
男性の隣まで近づいた、そのときだった。
突然、パチンッという乾いた音がした。
何が起きたのか分からず男性を見ると、左手首につけていた数珠が切れていた。
黒い珠が床に散らばり、座席の下や通路の隙間へ転がっていく。
男性は慌てる様子もなく、ただ自分の手首を見つめていた。
そして、小さな声で一言だけ呟いた。
「……またか」
その言葉が妙に気になった。
「また」ということは、以前にも同じことがあったのだろうか。
男性は床に落ちた珠を拾い始めた。私も手伝おうとしたが、なぜか声をかけることができなかった。
そして、ふと隣の空席を見る。
誰も座っていない。
もちろん、見た限りでは何もおかしなところはない。
ただ、その瞬間だけ、その席の周囲だけ空気が違って感じられた。
電車の中には大勢の乗客がいる。話し声やアナウンス、走行音も聞こえている。
それなのに、男性の隣の席だけが妙に静かだった。
私は結局、その席には座らず、少し離れた場所へ移動した。
男性は拾い集めた数珠の珠をハンカチに包み、何事もなかったかのようにポケットへしまった。
それ以降も、男性は同じ電車に乗っている。
数珠は新しいものに変わっていた。
そして今でも、ときどき男性の隣の席が空いていることがある。
ただ、私はもう近づかないようにしている。
あの日、私が男性の隣の席へ向かっていたときに数珠が弾けた。
それが偶然だったのか、それとも――
あの席には、誰にも見えない「何か」が座っていたのか。
考えれば考えるほど、あの男性が呟いた「またか」という一言が気になって仕方がない。

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